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仕事

私が適応障害の診断を受けるまでの話

はじめに

新卒で入った会社で、適応障害の診断を受けて退職した私。
今ではこうしてネタとしてお話しすることができますが、当時の自分は「仕事が回らない、これを打破するためには死ぬしかない」という割と危険な思考になっていました。

私の場合は原因が明確で「職場の異動+職種の変更」がきっかけでした。
会社に退職の意志を伝えた時に、私は異動してから会社にいけなくなった前日までの記録をスマホのメモに残しています。今まで思っていても言えなかった気持ちを吐き出したようなもの。少し加筆修正しながら、今回この投稿に載せようと思います。
完全に私の備忘録ですが、同じように辛い思いをする人が少しでも減るように参考になれば嬉しいです。

当時の職場と仕事について

メモを載せる前に当時の仕事について少しお話ししておきます。

私は一般的な企業ではなく、社会福祉法人に入社しました。
文字通り福祉を中心に、医療や保育など幅広く手掛けている法人だったのですが、
当時の私は大学での学びや経験をもとに障がい福祉に関心を持ち、総合職として入社。
その法人の総合職は最初の2〜3年は現場(障がい者施設や高齢者施設)で介護士、生活支援員として従事し、そこからさまざまな職種(施設相談員や本部の事務員など)を経験していく、という方針をとっていました。

生活支援員としての仕事内容や実際に働いて思ったことについてはこちらの記事で少しお話ししています。

生活支援員の仕事内容と向いている人 はじめに 新卒で入った会社で生活支援員として約2年半働いた経験がある私。入るまではどんな仕事内容なのかわからず、配属されてからも...

今思えばですが、私は事務員よりも現場の仕事が合っていたのだと思います。
もちろん現場の仕事はものすごく大変でした。
私が配属された施設は重度の知的障がいの方が大半で、トラブルは毎日起こるし頭に噛みつかれたり引っかかられて生傷は絶えない日々。
そして高齢者施設や病院のようにご利用者を看取る場面もありました。
それでも現場にいた頃の私は、嫌なことも基本一晩寝たら忘れられる図太い神経で「辞めたい」と思ったことはほぼありませんでした。
嫌なことがある以上に、利用者の方との関わりが楽しいと感じていたことと、一緒に働く人たちに恵まれていたことが大きかったと思います。
今でも時々、この最初に配属された施設の活動はHPを通して拝見していることがあります。

相談員の仕事って大変?

支援員として働いていく中で、私は施設の相談員の仕事が大変であることをなんとなく感じていました。

私たち現場の人間は基本シフト制で回しているので、定時になれば他のシフトの人に引き継げば比較的すぐに帰ることができました。けれど相談員の方は基本定時になっても事務所に残って残業している日々。自分が夜勤のとき、21時頃の見回り時にまだ残っていたこともあります。
また、休憩に関しても支援員は休憩室がありましたが、施設長や相談員は事務所でとっているため、休憩中に訪れる方や電話があれば対応しなければならない。支援員が手が回らないときは、自分の仕事を後回しにして1対1で対応に入る。
そんな様子を見続けてきた私は、2年半たった頃には相談員に異動することに対して正直躊躇がありました。もし異動がかかって、私にこんな仕事が務まるのだろうか?と。

そんな中突然訪れた異動で私の人生は一変しました。
ここからは当時メモしていた記録をもとに当時の状況を記載します。

異動から出勤できなくなるまでの記録

2018/10月中旬

朝出勤すると施設長から「後で大事な話があります」と唐突な発言。その雰囲気の時点で「これもしかして異動通告される?」となんとなく察しました。
基本的に異動の大半は3月に発表される定期的な人事異動なのですが、少し前から何人か同期が現場から異動していることを知っていたからです。

朝礼後の支援が落ち着いたところで事務室へ行くと、そこには総務部長の姿が。私が察していた通り「異動の通告」でした。
内容としては別の障がい者施設の相談員。施設の異動に加えてとうとう職種の変更でした。前任の方が産休に入るためその後任としてなぜか選ばれた私。そして、なんと翌月11月頭から異動と言われました。この時10月半ば。急遽約2週間で今の業務を引き継ぎしなくてはならない事態になったのです。
私には担当のご利用者が数名いたので、後任になる方へそれぞれ支援の引き継ぎを行ったり、ご家族へのご挨拶をしたりとしていたら、駆け巡るように2週間は過ぎていました。

その間、施設長に連れられて一度異動先へ挨拶に行くことに。向かう車の中で異動先の施設長のことや、何年か前施設内で問題が起きたことがあるところだから気をつけてねとか(これ割と衝撃発言だったけど、詳細は伏せます)、色々話してくれました。
施設長はおそらく突然異動になった私のことを、すごくに気にかけてくれていたと思います。異動後も会うたびに心配して声をかけてくれたのは、申し訳なくもありがたかった。

新卒から約2年半働いていた場所だったので思い入れは強く、最終日はみんなへ挨拶しながら大号泣。離れる寂しさと、施設も仕事も変わってしまう不安が正直ありました。

2018/11

不安を抱えながらの初日は最初の挨拶ですでに涙目。そして様子を見に前の施設の相談員さんが来てくれたときにはもう泣きそう、というか多分泣いていました。なんで泣けたのかその時はわかりませんでしたが、緊張と不安で張り詰めていたんだと思います。

異動先の事務所のメンバーは、施設長、先輩相談員2名と私。基本的には施設長と相談員2名で仕事をする、という感じでした。
私が引き継ぎを受けたのは産休に入るベテランの先輩相談員の女性。そして引き継ぎ期間がまさかの1週間しかないという驚愕的事実が初日に発覚します。私、相談員初めてなのに1週間で放り出されるの?何年も働いているベテラン先輩の代わりに?

その上、引き継ぎを受ける中で先輩からの追い打ちが。
「ここは他の施設と違って事務員さんがいないから、相談員がやらなきゃいけないんだよね。時々自分が相談員か事務員かわからなくなるよ」

確かに、異動前の事務所には相談員とは別に事務員がおり、行政への手続きやご利用者の金銭管理などの業務は事務員の方が行なっていました。そしてなぜか異動先には事務員の配置はなかったのです。
何もわかっていない相談員の業務に加えて、事務員の業務も覚えて1週間で独り立ちしろと?なんで右も左もわからないやつをそんなハードな場所に異動させたのか、全く理解ができませんでした。

そしてさらに悲しいことに、もう一人の先輩相談員はこの年の4月に異動してきたばかり。しかも担当業務は2人でそれぞれ分業していたので、お互いの業務がよくわからないという始末なのです。絶望的すぎる。

その結果、業務を進める中でわからないことがあったら、とりあえず先輩と施設長に聞き、それでも解決しない場合は産休に入る先輩か、前任の担当者(今は別部署)に聞いてくださいという謎の選択肢になりました。しかし、これから出産・育児に入る人に仕事の連絡をするのは申し訳なさすぎるし、前任の方も今の業務があるのに連絡して聞くのはどうなのかと当時私は思っていました。わずかに残された資料や記録をできる限り調べて、それでも行き詰まった場合はやむ得ず聞こう。そう思い業務を進めることにしました。

たった1週間で覚えられることなんてたかが知れていましたが、年内のやるべきことは聞いていたので、無我夢中で覚えながら業務に当たりました。

2019/1

1年の年間業務を確認してたら、毎年12月に手をつけ始めている案件(支援計画作成と会議)をやっていないことが発覚。職員会議で謝りながら説明したところ、お局職員様にその場でめちゃ叩かれる。言うのが遅かったのはこちらの非なので怒られることは納得しているけど、それに付け加えてもっと現場に入れ、現場をよく知らない人にモニタリングされてたくない的なことを言われる。こちとら覚えるのに必死なんじゃ。同じ業務やってから言わんかい(と心の中で思う)。

2019/2

これは多分1年持たないのではと思い、退職を考え始める。日直の間にノート2ページ分現在の辛いことを書き殴り、辞職願とか就業規定とかめっちゃ漁った。

機会あって年度内で辞める職員さんと話をする。精神的疲弊のため辞めるとのことで、家族にも相談していた様子。総務課や施設長と何回も面談したってこの時に聞いてたから、簡単に辞めさせてもらえなさそうと悟る。

この月、私の大好きな「あんスタ」のライブにも行っているのだが、せっかくライブを楽しみたいのに仕事のことが時々頭をよぎるとんでもない事態。もっと純粋に楽しみたかった。

2019/3

年度末の業務量に忙殺されながら、退職の為後半有休に入る職員さんを羨ましく感じる。私もこの機に一緒に辞められないかなと毎日考える。その上、割と私のことを気にかけてくれていた施設長がまさかの今月いっぱいで異動で絶望する。頼むから私をこの先輩と残して置いていかないで欲しいと本気で思った。

2019/4〜5月

年度が変わり施設長や職員の入れ替わりもあった為また業務に忙殺される。加えて合同行事の総括として色々動き始める。5月末で1つ行事が終わるがその際にまたお局職員様から怒涛のお叱りを受ける(非は認めるけどTPOは考えて欲しかった)

2019/6

上旬頃のある日、朝礼中突然立ちくらみと猛烈な吐き気で抜け出す。午前はなんとか仕事するも冷や汗も出てきてヤバい感じだったので早退し内科へ。結局原因は分からず「疲れや肩こりから来てると思います」と頓服と湿布だけ貰って帰る。その時点でなんかヤバいと本気で思い、後日近場の心療内科へ連絡。が、予約がいっぱいで結局取れたのが8/31だった。そこまで持つか心配に思いつつもなんとか仕事をする。

2019/7

正直なところあまり記憶がない。頑張って思い出したら行事とかあったなーくらいでそれ以外は未だに思い出せない。

2019/8/4

熱中症で倒れ、翌日の入所契約を放り出す事態になる。

2019/8/6

休み明け上司に呼び出しをくらい、体調不良は仕方ないが、入所の準備はもっと早く進めるべきだったし相談する必要があったのでは??というお叱りを頂く。ついでにSWの新任ワークブックの振り返りが今月あるから、今後の改善策や仕事を進めていくか考えを聞かせてください的な話をされた(と思う。正直この辺も記憶が定かではない)。

似たような話を8/12にもされる。この日から頭重感(額に何かが張り付いている感じ)が出始める。

2019/8/16

ご利用者家族が外泊で迎えに来た際、本人の様子をその場で伝えるのみの予定が何故かお局職員様が割り込んできて相談室で面談するように持ち込まれる(しかも何故か彼女も同伴)。色々あって施設移行を考えている方であった為、施設見学をご家族に提案したが、何故かここにも割り込んできて勝手に施設見学はせず、移行先が決まったら見学するという形に持ち込まれた。私のいる意味と思いつつ面談を終えた後、施設長にあれよあれよと面談内容を話し出し「今後は施設移行をゆずりはさんが進めてくれるんでね!」と爆弾発言を投下する。自分で巻き込んでおいて残りは投げ出し発言に言葉通り開いた口が塞がらなかったし、その時点でなんかプツッと切れた気はした。

同日終業後

いつも通り残業をしていると上司から色々な案件の進捗状況を聞かれる。正直この時点で色々もう手がつけられてなかったからほとんど謝り倒してたと思う。複数の案件は締め切り日をその場で設定するよう言われて一応スケジュール見ながら(絶対無理と思いつつ)日付を伝える。ワークブックの振り返りも翌週に控えていたが、ぶっちゃけまだ真っ白なことを伝える。当たり前だけど「それはどう間に合わせるつもり??」と言われ「できるだけ間に合わせるように努めます」と返したところ、「できるだけ努めます、は逃げをつくってるように聞こえるんだよね」とバッサリ一刀両断。最早返す言葉もなく「間に合わせます」とだけ言い、結局逃げるように職場を出た。

車の運転席に座った瞬間もうすべてがどうでもよくなって、帰り道の途中で川に飛び込もうか本気で脳裏に過ぎった。多分そこに車を停めたら終わると思いなんとかとどまりながら家に帰る。帰宅後親に「大丈夫?」と言われ、いつもなら「なんとか生きてる」とか「疲れた〜」で返してたのが「ちょっと本当に大丈夫じゃないかも」ってガチトーンで言ったのはよく覚えてる。

2019/8/17-8/18

せっかく鑑賞会組(同期の趣味の合う友人たち)で出掛けたりなんだりしたのに、申し訳ない話、正直記憶がほとんどない。遊んでる最中もいつも以上に週明けの仕事のことがずっと頭にあって心から楽しめてなかったのかもしれない。カラオケ店でいつも普通に書けてる自分の電話番号が出てこなくなった時は危機感を感じた。
18日の帰宅後はもう仕事の事しか頭になくて多分おかしくなってた。

2019/8/19

朝目が覚めると、私は起き上がることができなくなっていました。
頭では仕事だから、早く起きなければと理解していましたが、もう心が限界だったのです。
なんとか体に鞭を打ってベッドから起き上がったものの、部屋のドアの前で座り込んでしまい結局その場から動けず。頭の中は「もうこのまま休む」か、「職場へ向かったら飛び降りる」というとんでもない2択なっており、起きて来ないため心配して様子を見にきた親が来るまで、私はそこから動くことができませんでした。結局部屋から出ることができずベッドに戻り、震える手で施設長に休む旨を連絡。電話で自分の状況を伝えたつもりでしたが、多分支離滅裂なことを言っていたと思います。

連絡後、目からはボロボロ涙が出てきました。なんでこんな風になっちゃったんだろう、頑張れない自分が悪いのだろうか、ネガティブな感情ばかりが浮かんでは消えてを繰り返す状態。

その日は全ての気力がなくなってしまいました。尿意はあるのにトイレに行けない、お腹は空いているのにご飯を食べる気力はない。生きるための行動すら取れなくなり、1日を言葉通りほぼベッドの上で過ごしました。人らしい行動はかろうじで行けたトイレ2回と軽い食事のみ。そして夜になると次の日のことをまた考える。けれど、もうその日を休んだことにより今後私はもう仕事に行けないとなんとなく思っていました。

2019/8/20

朝目が覚めてもやはりベッドからは起きれず。もう休みの連絡すら入れられない状態になってしまい、恥を忍んで心配して様子を見にきた親に休む旨と今の状態について連絡を入れてもらいました。本当にこれは我ながら情けないと思う。それでも、本当にありがたいことですが両親は私を責めることは全くしませんでした。「ちょっと頑張り過ぎたのかもね」、「本当に無理なら辞めてもいいと思う」と私の気持ちを尊重してくれました。

とりあえず1週間の休みを得て休養に入ることに。

2019/8/26

仕事が休みだった父が施設へ行き、施設長に話に言ってくれました。とりあえず休ませて欲しいこと、今の職場にはおそらく復帰できないことを伝えてくれたようですが、施設長としては1回会って話がしたいとのこと。

正直、通常の日常生活を送れていない状態で会えるわけないとは思いました。けれど、以前に予約していた心療内科の受診が近かったことや、最低限の責任として会わないといけないとは思い、面談を了承。受診後に施設で面談することになりました。

今振り返って思うこと

私は職場ガチャに負けた

何でもかんでも周囲のせいにしてはいけないとは理解していますが。職場ガチャは本当にある。
あまりたらればの話をしたくはないですが、もし異動前の施設で職種のみ変更なら、違う施設や本部の事務職員なら、今回より長く働けたのかもしれない、逆にもっと早く辞めていたのかもしれない。
(実際仲の良い同期二人のうち、私と同じ職種の子は異動して一ヶ月で辞め、本部の事務職員になった子は6年ほど続けていた)
職場ガチャと言っても、施設、業務、働く人さまざまな要因がありますが、私の場合はいずれもはずれ、というか合わなかったのだと思います。

無理をしてまで頑張らなくてもいい

今でも時々、「自分はどう行動するのが正解だったんだろう」と考えることがあります。
「もっと誰かに助けを求めるべきだった」「なんでもかんでも引き受けずにできないことを断る勇気を持つ」と今なら口で簡単に言えますが、
当時の私にはそれができませんでした。ただ、「動けなくなるまで仕事を続ける必要はなかった」のは間違いない。

なんでも一人で抱え込まないことが大事

当時、人員配置やら諸々の理由やらで困ったことが合っても相談できず、とりあえず自分で頑張って業務をこなすという方法で仕事をしていましたが、一人で抱え込むのは本当に良くない。元々抱え込みやすい性格で我慢しがちなところがあった私も、この経験を経て改善しなければいけないと思いました。
何でもかんでもおんぶに抱っこはまた違うのでダメですが、自分一人で解決が難しいと思った時はすぐに周りの人に助けを求めたり、嫌なことがあったら吐き出せる場所を作っておくことは大切です。
とはいえ中々すぐに直すというのも難しいので、私も日々抱え込まないように努力しています。

完全に割り切れない自分がいることも確か

正直、嫌いな人たちのことを考えて感情を支配されたりするのは勿体無いので今はほとんど考えないようにしています。
が、私は根っからの善人ではないので、上司やお局職員のことはぶっちゃけ今でも恨んでいますし、一生苦しめばいいくらいには思っています。
辞めて少ししてから、異動前の職場の先輩から心配のLINEをもらった際、
「〇〇さん(お局職員)が申し訳なかったって言ってたよ」と連絡をもらった時は「は?」と思いました。
その時はもう気力も何もなかったのであえて触れませんでしたが、
今だったら「それって何に対しての謝罪なの?」と直接連絡してやればよかったと感じています。

福祉の仕事が嫌になったわけではない

辞めてしばらくは「二度と福祉の仕事なんかやらない」と思っていましたが、冷静になってくると「あの環境や相談員としての仕事は嫌だったけど、利用者さんに関わることは嫌になっていない」ということに気づきました。冒頭でも少し触れていましたが、大変なことももちろんたくさんあったけど、障害を持つ人に対しての「もう関わりたくない」という感情は決してなかったからです。
体力面や、現在足を負傷したこともあるので、じゃあ今すぐその仕事をやれるかというのはまた別になりますが今後また仕事を変える機会があった際の選択肢には消えないのではないかなと思います。

ABOUT ME
ゆずりは
1993年生まれ。静岡県出身。正社員→パート→派遣社員とさまざまな雇用形態を経験。現在は派遣としてIT企業の事務職で働いています。ゲーム、漫画、アニメが好きなオタク女子。